Skip to Main Contents
在学生の方へ
法科大学院在学生の方へ
カリキュラム
開講科目
学事暦
時間割表

コラム
判例データベース
e-learning

コラム

「<疑惑>と弁護士倫理」 (平成21年1月26日)

北大法科大学院特任教授 弁護士 田中宏


 去る1月24日、HTB(テレビ朝日系)で、松本清張原作の推理ドラマ「疑惑」を放映していた。保険金殺人を巡る法廷ドラマであった。大変面白かったので、早速原作を買い求め読んで見た。テレビドラマのストーリーは、原作のそれと似ていたが、別物といってもよい内容だった。主人公は、東京の弁護士(田村正和)で、ライブバーでピアノを弾くというかっこの良かった。こんな弁護士がいるのかなとも思った。いま1人の主人公は、北陸日々新聞の社会部記者、秋谷茂一であるが、テレビでは女性記者に代わっていた。私には、この秋谷こそ主人公であると思えた。秋谷は、逮捕前から、警察からリークされた捜査情報を元に「北陸一の毒婦」とか「稀代の犯罪プロフェッショナル」という断定的な記事を連載し、地域の人達に被告人が犯人であるという印象を植え付けていた。秋谷の度を超したキャンペーンによって、万一、被告人が無罪になったならば、自らが「お礼参り」の危険に遭うことも予想された。そして、秋谷は、その恐怖心が昂じて精神に変調を来し、弁護人を鉄パイプで殺そうとするところで、物語は終わっている。

 刑事弁護は、社会から批判され、非難されている者の弁護である。弁護人にブーイングやバッシングが来ることもある。「疑惑」でも、「正義の味方・弱者の味方である筈の弁護士が、この悪人の味方をする。」「彼女が無罪になっても喜ぶ人は1人もいません。」とか、事件を受任すること自体、声高に非難が飛んでいた。最近の光市母子殺人事件や和歌山カレー事件と同様の構図である。しかも、弁護人の家族まで、「せっかく高い評価を受けているのに、こんな事件を引き受けると(弁護士としての)評価が転落する。」と弁護人を諫める。弁護人は、被告人の行為に同調・賛同して刑事弁護を行うのではない。ところが世間(社会)は、被告人と弁護人を一体として見てしまう。どうも刑事弁護人の役割が理解されていないと言って良い。国連の「弁護士の役割に関する基本原則」(1990(H2)年、ハバナで開催された国連犯罪防止会議で、全会一致で採択されたものであり、同年、国連総会は、これを歓迎する決議を行っている。日本政府も賛成した。しかし、世界人権宣言と同様、法的拘束力はない。)は、「弁護士は、その職務を果すことにより、依頼者あるいはその主義と同一視されないものとする。」と定めているし、ABA(アメリカ法曹協会)の現行倫理規定は、「弁護士による依頼者の代理は、国選による代理を含めて、依頼者の道徳的、経済的、社会的または道徳的意見または行動の是認を意味するものではない。」と定めている(Model Rule of Professional Conduct 1-2-(b))。しかも、弁護士は、依頼者から独立していなければならないのだ。

 「弁護士は俺の天職だ。被告に弁護を頼まれたら嫌とは言えない。まして世間に評判の悪い被告ほど、助けてやるのが義務じゃないかね。」「悪女でも、無実の被告には変わりはありません。私は彼女を救い出しますよ。」という台詞は、刑事弁護のマインドそのものである。松本清張は、刑事弁護の構造を正しく理解した文言を散りばめている。

 今年の5月から、裁判員制度が始まる。上記のような断定的な記事が裁判員に影響を与えることは確実だ。日本新聞協会は、昨年1月、「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を採択し、報道の自由・公正な報道を確保するとともに、

(1)犯人と決めつけるような報道は、将来の裁判員である国民に過度の予断を与える。
(2)警察発表がそのまま真実であるとの印象を読者に与えないよう配慮する。
(3)識者のコメントや分析は、被疑者が犯人であるとの印象を読者に植え付けないよう十分留意するとしている。

 これを受けてか、確かに最近の記事は、断定的な表現はなくなった。かつては「しぶとく否認」「ようやく自白」とか、メディアが捜査官と一体となって犯人視の報道を行っていた。裁判員制度の余録か。

 「疑惑」の最終弁論は、途中で終わっている(恐らく、弁護人が秋谷に殺されたのであろう)が、弁論は「まだ捜査中であるにもかかわらず、マスコミを挙げて被告人の殺人行為であることを断定するか如き報道が頻りとなされ、この報道により世論一般が引きずり込まれ」「特に遺憾なことは、捜査関係からマスコミに情報が積極的に流された疑問が極めて強い。」「本裁判に直接関与した当事者は、これら先入観を全て拭い去り、被告人を有罪とし得るか否かは、当法廷に顕出された証拠の一つ一つを丹念に精査して事実を確定していき、少しでも合理的疑いのある証拠は、全て排斥するという刑事裁判本来のあり方に立って、冷徹な眼で本事件を見つめるべきであることは論を待たないところである。」と、刑事裁判とメディアの関係について正しく指摘している。「疑惑」が1982(昭和57)年の作品であることを考えると、松本清張の炯眼には脱帽するしかない。

 「疑惑」では、メディアは、被告人の犯情の悪さや前科を書き立てている。秋谷は、弁護人に「犯行を認めた上で、情状酌量論ということもあるのではないか。」と方針の変更を促しているが、「被告は絶対に犯行を否認している。弁護人は、それを援護するのだ。」と拒絶する場面がある。弁護人は、被告人のために最善弁護を尽くさなければならないのであり、弁護人は、被告人の有利にしか弁論してはいけないのである。被告人が否認しているのに情状弁護をしたり、被告人が正当防衛の主張をしているのに情状弁護をしたり、被告人が否認しているのに、検察官申請の供述調書に同意するなど、被告人に不利益な弁護活動は許されないのである。弁護人が、メディアなどの圧力に負けて、被告人に不利益な弁護活動をしたらどうなるのか。被告を防御してくれる者がいない状態になってしまう。これは、弁護人の誠実義務違反として懲戒の対象となる。ここにも、松本清張の人物設定において、弁護士のあり方についての炯眼が認められる。

 この他にも、守秘義務(拘置所の出口での記者とのインタビューで、接見内容を明らかにしなかった)、弁論における名誉毀損(仮処分事件での情夫という表現をネタに金を恐喝する)など、弁護士倫理を学ぶうえでのエピソードがいくつも出てくる。また、私選弁護人が解任されてもなお法廷に立っていたのは、裁判所に解任届が出されていなかったためと推測されるが、不自然であった。

 推理小説も異なる視点から読んでみると、結構参考になる。ご一読を勧める(「疑惑」文春文庫・1985年・476円)

平成21年1月6日記

コラムの一覧に戻る

最終更新日:平成21年4月1日

「北海道大学|法科大学院|在校生の方へ|コラム」のトップへ戻る