エッセイ・意見
ニフティ事件とネットの規制の契機

つぎは、私が大学のメーリングリストに出した記事です。
私の部分のみを掲げます。

5/27/97付
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法の網はインターネットの世界(ワールド・ワイド・ウエッブ)よりも広い?
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周知のように、刑法で有害情報や犯罪の取締りを理由とした、インターネットの規
制が進んできています。
昨日(26日)のニフティ・名誉毀損事件の判決では,フォーラム・BBS(登録は
いるけれども、不特定多数の人が意見や議論に参加できる)におけるのシステム・
オペレーター(シス・オペと新聞記事でも略称)とプロバイダー(ニフティ)との
関係を使用者と被用者との関係と見て(民法715条の使用者責任)、第三者のメ
ンバーによる名誉毀損的な書き込み(ニフティの場合は、本名でも仮名的匿名でもで
きる)に対して措置を取らなかったことに対する賠償責任として10万円、名誉毀損
した第三者に40万円の賠償を認めた(多分、認容額はこうなっていたと思う)。
民法の領域でも「規制」に一歩踏み出したことになる。いずれ、独禁法、知的所有
権、商法それに憲法の問題としても通信やインターネットのスペースに対して判決
が出される日は近いと思われます。

現実の法の世界を、通信やインターネットの世界に当然のように無前提に当てはめ
たような裁判論理に見えるのですが。

1.現実世界とインターネットあるいは通信世界は同じと見てよいか?
どこが違う、あるいは同じか?

2.同じと見ないならば、賠償責任の負い方(負わせ方)は異なるか?名誉毀損し
た本人のみの責任でよいか?
 やはり、シス・オペとプロバイダーを被用者と使用者の関係と見て、使用者責任を
肯定するか?

3.判決のように名誉毀損的言辞を削除する権利まで認めると、シス・オペにどれ
が「名誉毀損」的言葉か書き込みかの判断のいわば「全権」を与えることになりか
ねない。また、シス・オペひいてはプラオバイダーは賠償責任をなるべく免れるた
めにリスク・アバースになることが予想されますからますます、危険のあるものは
除くということになり、表現の自由は制限・萎縮するのではないか?

4.サイバースペース(インターネットの世界といっても同じ)は、いわば最後の
(あるいはそれに近い)「自由」な空間として捉えるのが、95年末のウインドウ
ズ95騒動からこのかたの、いわば「共同幻想」(懐かしい響きですね?)「浅き
夢みし」に過ぎなかったことになるのか?

5.個人自由(ここでは個人の名誉を守る行為)と社会とは”根本的な矛盾”を抱
えている(Dunkan Kennedy の言葉)として、この法体制の下ではこれを何とかご
まかす(あるいは、暴く)しかないのか?

これらに限らず、他の問題も含んでいると思いますので、それらもまた、ご意見な
り、ご指摘などいただければ、幸いです。

**********************5/27/97


5/28/97付
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まとまりのない意見を哲学的な網ですくっていただいて、有り難うございます。:)

****** 原文に引用あり・略 ******

名誉毀損という、いわば規範の誕生の根源を言っておられるのですね。また、たし
かに言語・テクスト的には連続しているといえるでしょうが...。

さて、規範は誕生したわけですが、社会規範のどのレベルあるいはパネルにも適用
できる−されるべき−ものとなるのでしょうか?
<テキストの連続>をいわれる長谷川先生では、やはり現実世界に適用されている
国家法が、ここwwwにも適用される、ことになるのでしょうか?

もしそうならば、ルールの主要な根源を法律に求める「法(学)中心主義 "Legal
Centralism"」になりはしまいか。コースの定理や慣習(法)が働く空間も、私たち
はまだ多層的に持っていると思うのですが。


取違えしていることを恐れますが...5/28


6/11/97付
Nifty case の続きのつもりで,つぎの3つの点について議論します;


■「それで、どこが悪いの?」

 社会や経済システムは複雑になっているのに、政治や経営それに意識は旧来(日
本的経営の成功と日本社会の栄光が驚異と受け取られた時代)と同じために、私た
ちの社会はほころび(始めて)いるようです。法律もその一翼をになってきたわけ
ですが、ほとんどの知的専門家や法学研究者や実務家たちは、中央集権的な法の存
在とその適用はこの社会を前提とするかぎり、不可避であるという信念を持ってい
るようですね!

これに対して、私の主張は、複雑・多様な社会に対応するには集権的な法(centrali
zed law)システムよりも、より分権化された「法」づくり(国家”法”のイメージを抜
くために、社会規範・ルールづくり、といった方が良い)が求められている、と言
うことです。

ニフティ事件の場合、名誉毀損的侵害があったから、法的救済として民法の名誉毀
損の条文や規定を持ち出して、これによって処理するのは、わたしたちの「常識」
にも叶うことと、私自身も半分は思います:「それ(国家法ー裁判所による解決)
で、どこが悪いの?」と。

■法学帝国主義/法(学)中心主義 
さて、「常識」のディコンストラクション!:)

しかし、そこには落とし穴があり、そのような態度は、上で述べた信念とも重なっ
ており、それはいわば、ー最初のメールのときにも書きましたがー法学帝国主義あ
るいは法中心主義 "law centralism"ではないのかと。
<なお、法と経済学に対する「経済学帝国主義」批判では大変お世話になりました
。>ジョークのつもり...:)


■裁判所よりもシャスタ郡(Shasta County)へ行こう。
 ではどうやってこの事件の「救済」や解決をはかるのか?この点が、先週土曜日
のコンパのとき、一部で議論された問題です。法律によらない解決はユートピアか
能天気ではないのか? 
つぎのような規範の位相が存在することは誰も否定しないと思う。

     空間                     −− 規範       −− 制裁 (の順です)
(1)個人レベル                    −−個人の倫理  −− 自己制裁
(2)フォーラム・レベル(ニフティ)−−契約条項    −− 自力救済
(3)一般社会レベル                −−社会規範    −− 社会的制裁
(4)会社や組織                   −−組織内部規律 −− 組織内制裁
(5)国家                          −−国家法       −− 裁判所による制裁
例を挙げると、大学空間や、家庭や子どもの世界にはそれぞれのルールがある。学
生がカンニングした、いたずらをしたとき、ただちに裁判所へ私たちは行くだろう
か?そこを尊重してやる必要がある。長谷川さんのクラブ財や部分社会の秩序はこ
の点を指摘していると思います。

ことに名誉毀損など表現の自由と関わる領域では、より規制的でない(less
restrictive)方法、つまり、個人の自由をなるべく保障する規範が選ばれるべきだ
、と考えるのです。

サイバースペースを過度に特殊なものとみなすことに対する警告や批判について、
ネットワークを構成しているのが現実世界の人間だから、現実世界の規範たる法律
が適用されて不思議はないとする議論もあります(町村泰貴「インターネット上の
紛争とその解決」法律時報69巻7号14頁(1997.6)が、人や社会の多様
な空間や領域を一面的に捉えすぎていないかと懸念します。

*<シャスタ郡>については、
Robert C. Ellickson, Order Without Law: How Neighbors Settle Disputes
(Harvard UP, 1991)
長くなって、恐縮です、じゃあ、また

林田  6/11/97
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hayasida@juris.hokudai.ac.jp  *今週の名句*
<だんぜん 法を捨ててしまおう−−F.ローデル>
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