特許保護に関する宣言
―法制度設計に関する各国の主権とTRIPS協定―
 田村 善之・中山 一郎(訳)
Declaration on Patanet Protection (翻訳)

〔訳者解説〕

 本稿は、the Max Planck Institute for Innovation and CompetitionのReto M. Hilty所長が主導する国際的なプロジェクトの成果であるDECLARATION ON PATENT PROTECTION:Regulatory Sovereignty under TRIPSの邦訳である。原文(英語)はhttp://www.ip.mpg.de/en/pub/news/patentdeclaration.cfmからダウンロードすることができる。

  これに先行する同様の企画としては、著作権の制限に関するスリー・ステップ・テストの解釈指針を示したDECLARATION:A BALANCED INTERPRETATION OF THE “THREE-STEP TEST” IN COPYRIGHT LAW[1]が知られている[2]。本特許保護に関する宣言は、いわばその特許版とでもいうべきものであるが、制限規定に止まらずTRIPS協定の特許関連の規律全般を扱うという野心的な試みである。

  TRIPS協定は実体的に知的財産権の最低限の保護の水準を広範に要求する国際条約として「画期的」なものと評することができるが、それは多国籍企業のロビイング活動の影響下にある政策形成過程のバイアス[3]の産物であった[4]。実際、日本ですら1990年代になってようやく到達しえた極めて高水準のものであって[5]、それを途上国を含む全てのWTO加盟国に要求することの合理性が問われて然るべきである[6]。それにもかかわらず、知財保護強化の流れはTRIPSで終焉することなく、その後も、米国等が主導する二国間のFTA交渉や地域貿易協定によりさらに強力なTRIPS+の知財保護が各国の知財法制を着実に浸食しようとしている[7]

 しかし、TRIPS協定は、解釈の余地を残す幾多の条項を含んでおり、加盟国が自国の知財法制を規律する際に相応の裁量の余地を残すものとして解釈しうるものである[8]。本宣言は、TRIPS協定下においてなお加盟国が有する選択の自由の範囲を明確化することで、一方的な国際的知財保護の強化の流れに対して、なにがしかの合理的な再考の機会を与えることを目的としている。

 もちろん、本宣言の解釈手法、特に、特許制度等の趣旨やTRIPS協定が目指すべきと思料される目的(それは、TRIPS協定の前文や、高次の「目的」と「原則」を掲げる同協定7条、8条に具現されている)に鑑みることの重要性を一般論として強調したうえで、個別条項の解釈に当たりそのテキストに意味を「充填」していく解釈手法[9]に対しては、通常の条約解釈の枠を超えているのではないかという疑義が呈されるかもしれない。しかし、政策形成過程のバイアスの産物である条約の解釈に際して、単純に個別条項の文言に従った解釈を淡々とポリシー・ニュートラルに遂行させていくだけでは、条約のバイアスを固定化することに堕する。そして、実際の多国間条約の交渉の場面では、多国籍企業の利益のために当該制度を導入するなどという現実の政策形成過程の力関係を剥き出しにした議論があからさまに行われることは稀であり、より「polite」な理屈で背後の利害関係をオブラートに包んだ形で交渉が展開されると指摘されている。かりにこの見立てが正しいとすると、条約の前文や目的規定は、抽象的であるがゆえに、加盟国全ての利益に均等に配慮しているという意味で、よりバランスのとれた「polite」な目的が掲げられている可能性が高く、それがゆえに個別具体の条項に顕現する政策形成過程のバイアスを矯正する手段として用いうるということになるのではないかと思われる[10][11]

 本宣言は、Hilty議長の主導の下、後掲するDRAFTING COMMITTEEの下で討論がなされ、the Max Planck Institute for Innovation and Competition のMatthias Lamping研究員がドラフトを確定するという作業が先行した。その後、2013年7月18日から20日にかけてシンガポールにおいて、後掲するFURTHER CONTRIBUTORSの過半が参加する拡大委員会が開催され、全ての条項案に関して討論がなされた結果、そこにおける議論[12]を踏まえつつ、再度、DRAFTING COMMITTEEが文案を練るという経過を辿り、最終的に2014年の4月15日(TRIPS協定が作成された1994年4月15日から20年目に当たる)にVersion 1.0が公表されるにいたった。

 邦訳者である田村、中山は、このうち拡大委員会に参加する栄誉を得た。20名程度の一線級の国際的な研究者による熱心な集中的な討議に加わることができたことは貴重な経験となった。訳者をプロジェクトに呼び入れるとともに翻訳の許諾を与えてくれたReto M. Hilty所長、シンガポールにおいて会議のロジスティクスを担当したthe National University of Singapore のWee Loon Loy教授、Hilty所長とともに来日し、2014年2月28日(明治大学)と3月1日(早稲田大学)に日本の知財研究者や一般聴衆とともに本宣言に関するディスカッションを挙行する機会を実現することに協力してくれたMatthias Lamping研究員、我々とともにシンガポール会議に参加し、Hilty所長とLamping研究員の来日並びに明治大学及び早稲田大学での議論のアレンジに尽力してくれたChristoph Rademacher早稲田大学准教授、早稲田大学及び明治大学での議論の場を提供してくれた高林龍早稲田大学教授及び金子敏哉明治大学専任講師を始めとする関係者の方々に、この場を借りて謝意を表することにしたい。


[1] その邦訳として、「スリーステップテストに関する宣言」フェアユース研究会『著作権・フェアユースの最新動向-法改正への提言』(2010年)参考資料CD。

[2] 同宣言の主導者による関連論文として、Christophe Geiger (安藤和宏訳)「情報化社会に対する著作権法の適応におけるスリーステップテストの役割 (1)~(2・完)」知的財産法政策学研究27~28号(2010年)。

[3] Peter Drahos(山根崇邦訳)「A Philosophy of Intellectual Property (5)」知的財産法政策学研究38号344~349頁(2012年)。

[4] Peter Drahos(立花市子訳)「知的財産関連産業と知的財産の国際化:独占促進と開発阻害?」知的財産法政策学研究3号37~43・50~54頁 (2004年)、Peter K. Yu(青柳由香訳)「国際的な囲い込みの動きについて(2)」知的財産法政策学研究17号24頁(2007年)。

[5] Yoshiyuki Tamura, IP-based nation: Strategy of Japanin FREDERICK M. ABBOTT, CARLOS M. CORREA AND PETER DRAHOS, EMERGING MARKETS AND THE WORLD PATENT OREDER (Cheltenham: Edward Elgar 2013), at 386-87, その要約として、田村善之「知財立国の動向とその将来像」同『ライブ講義知的財産法』(2012年・弘文堂)12頁。

[6] Rochelle C. Dreyfuss (田村善之=劉曉倩訳)「ネオフェデラリストの視点からTRIPS協定を展望する(1)-弾力性を持つ国際知的財産制度の構築に向けて-」知的財産法政策学研究37号44~45頁(2012年)。

[7] Peter Drahos (立花市子訳)「知的財産関連産業と知的財産の国際化:独占促進と開発阻害?」知的財産法政策学研究3号44~50頁(2004年) 、Peter K. Yu (田村善之=村井麻衣子訳)「国際的な知的財産権制度におけるハーモナイゼーションに抵抗する5つの傾向について」知的財産法政策学研究15号15~27頁(2007年)、Peter K. Yu(青柳由香訳)「国際的な囲い込みの動きについて(3)」知的財産法政策学研究18号2~9頁(2007年)。

[8] Peter K. Yu (青柳由香訳)「国際的な囲い込みの動きについて(2)」知的財産法政策学研究17号30~35頁(2007年)。Dreyfuss・前掲注(6) 40~44頁。

[9] Peter K. Yu (安藤和宏訳)「TRIPS協定の目的と原則(2・完)」知的財産法政策学研究30号127~162頁(2010年)。

[10] 田村善之「知的財産法学の新たな潮流-プロセス志向の知的財産法学の展望」ジュリスト1405号28~29頁(2010年)。

[11] もっとも、本宣言_ftn1自体は、具体的な個別条項の解釈を提示する際に、明示的にTRIPS協定7条、8条に言及することは稀であり、むしろ、当該条項が定めている制度(ex.強制実施権)の趣旨ないし特許制度内におけるその役割に照らして意味を充填していく手法のほうがよく用いられているが、具体の文言から離れた合理的な制度設計に資する解釈論を実現しうる方策であることに変わりはない。

[12] 多くの場合、参加者のコンセンサスが得られたが、一部につき多数決によって決したものもある。もっとも、多数決によって自身の意見が通らない場合、離脱の自由が与えられていたが、会議の席上でそのオプションを行使する者はいなかった。