J-mail No.13 2003 Summer

CONTENTS・・・・・・・・・・・・Summer,2003
●J-Review:薬師寺克行
●Research Update:松久三四彦
●Juris Report
●From Abroad:吉田邦彦
●Information

 

J-Review

いまを、斬る●
総選挙で自民党は生きのびるのか?

TEXT:薬師寺克行●朝日新聞論説委員

1

 今秋にも予想されている次期総選挙で、候補者の「公募」や「予備選挙」が、脚光を浴びそうだ。というのも、最も縁のなさそうな自民党が、全国各地で実施しはじめているからである。
 一般の人から候補者を募集するのが公募であり、党員が投票して公募に応じた人の中から候補者を選出するのが予備選挙だ。永田町が閉塞感に溢れているだけに、こんなやり方をすれば、いかにも開かれた政党であるかのような印象を与える。ところが、自民党がやると、意味が一変してしまうのである。それがまたいかにも自民党らしい。
 北海道では、8区で佐藤孝行氏が引退する。後継候補を公募することになったが、8区の支部役員会は佐藤氏の次男を後継候補として推薦することにした。自民党の支部といっても、実質的には佐藤氏の後援会である。他の人が公募の結果候補者に選ばれても、選挙になるまい。仮に佐藤氏の次男が候補者に選ばれれば、「公募」とは名ばかりで、息子の立候補を正当化するための茶番劇のような話となってしまう。
 逆に、二世候補を阻止しようとしているのが宮崎の例だ。3つの小選挙区すべてで党員による予備選挙を実施することになった。引退予定の議員が自分の息子を相次いで出そうとしていることに、県議が反対した結果の措置だ。千葉は「公募」ではないが、もっと激しい。自民党所属県議が、小選挙区で一定の条件を満たした無所属候補を応援しても責任を問わない、という方針を決めた。その条件とは、5年以上、自民党に所属した県議や、自民党公認で2期以上在職した首長らとなっている。
 現職が辞めても二世ばかりが立候補するのでは、県議や首長が国会議員になる機会がなくなると言う不満がでたためで、国会議員に対する県議の反乱である。しかし、ここまでくると、政党政治の否定でしかない。
 自民党の地方組織で起きているこうした動きは、小選挙区制度のもとでの党組織の矛盾がここにきて一気に吹き出したことを物語っている。いくら「公募」や「予備選」という新たな装いをしても、外に開かれた候補者選びとは無縁だ。所詮、世襲の正当化か、地方政治家の小さな反乱でしかない。これが衰退政党自民党の最後のあがきであることを、有権者には見透かしてほしい。

 

Research Update

「時効制度の構造と解釈」

松久三四彦●民法 教授

2

 指導教授、山畠正男先生に研究テーマを問われ、時効制度をやりたいと答えると、「時効は面白い」といわれた。それを聞いた五十嵐清先生は、「時効は泥沼だ」といわれつつ、出版(1975年)まもないカール・スピロの大著(2巻で約1600頁)を教えてくださった。以来、時効制度の研究をこつこつと続けることになる。
 この時効とは、条文の上からは、他人の物をながく自分の物のように占有しているとその物の所有権を取得することができ(取得時効)、あるいは、ながく借金を返さないでいると債務を消滅させることができる(消滅時効)という制度である。しかし、これに対しては、それでは法が不道徳を認めることになるから、自分の物でありながらそれを立証できない者、借金は返済したがそれを証明できない者のために時効があるのではないかという考えが対立している。このように、基本的な制度でありながら、その存在理由の理解が根本的に対立しており、このことが、多くの各論的問題の解釈、つまり、説明のし方や結論に影響を与えている。判例は膨大であり、学説は多彩にして混迷の状況にある。そこで、いわば時効という白いキャンパスに、その全体像を描き出したいというのが願いである。
 各論中、時効中断の基準、時効中断の物的範囲と人的範囲、援用の存在理由と法的構成、援用権者の範囲の基準、不法行為による損害賠償請求権の期間制限、消滅時効の起算点、取得時効と登記については、不十分ながらすでに論文があり、あるいは論文中で考察した。しかしなお、存在理由論とのかかわりでは、時効援用と権利濫用の問題が重要であり、これからというところである。来年4月にはこれらを纏めることになっているが、はたして予定通りにいくか、時間に追われている毎日である。

 

Juris Report

公開シンポジウム
「先端生命科学・技術の倫理的・法的制御」

2003年6月8日 北海道大学学術交流会館小講堂

基調報告:山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)
パネラー:青木清(上智大学生命科学研究所教授)
   位田隆一(京都大学大学院法学研究科教授)
   勝木元也(岡崎国立共同研究機構・基礎生物学研究所所長)
   菱山豊(文科省研究振興局ライフサイエンス課生命倫理・安全対策室長)
   村上陽一郎(国際基督教大学大学院教授)
総合司会:東海林邦彦(本研究科教授)

 本シンポジウムは、クローン人間、DNA解析などなどに見られる先端生命科学とその技術的応用の驚異的な発展を前にして、「日本人の生命観・身体観にふさわしい生命倫理とそれに適合的な法的規制はどうあるべきか」などの基本的課題をめぐって、専門家と非専門家の間のコミュニケイション・意見交換を図ろうとする趣旨で開催された。
 まず、日本人の身体観・生命観の伝統の中には「霊肉二元論」的な観念と「心身一元論」的なそれとが混在しているとの山折氏の基調講演を受けて、青木氏からは他の生物と人類全体への責任を自覚した生命科学の健全な進展が望まれるとの指摘、位田氏からは社会の行動規範としての生命倫理が国際的な普遍性をもった規範として確立されるために必要な体制・行為の方向性、また菱山氏からはこれまでの行政の取り組みの概要が示され、勝木氏からは先端生命科学が孕む種々の危険性・問題性が明らかにされ、最後に村上氏からは社会のなかでの科学の倫理的行為規範の定立は専門家集団だけには任せておけないとの認識が示された。そのあと、フロアーから樋口氏をはじめとする五名の指定発言者や出席者から多彩な発言があり、壇上のパネリストおよび山折氏との活発な意見交換がなされた。 
 生命倫理・科学政策論等の分野での現代日本を代表するそうそうたる顔ぶれのシンポジウムとしては、多くの反省点・不満感も残ったが、上記趣旨は十分達成できたものと考える(なお当日の速記は、近日中に校正・簡易製本のうえ公刊の予定)。

3

講演会
「最近の中国情勢と日中関係」

2003年7月24日 北海道大学学術交流会館小講堂

講師:谷野作太郎(前中国大使・元インド大使・現(株)東芝取締役)
司会:山口二郎(高等法政教育研究センター長)

 センターでは本年度の公開講演会の第1弾として、7月24日、前中国大使の谷野作太郎氏をお招きして、「最近の中国情勢と日中関係」と題する講演会を開催した。谷野氏は、最近の中国の国内情勢について、次のようにまとめた。江沢民体制から胡錦涛体制への円滑な移行に示されているように、中国共産党において世代交代が順調に進み、共産党自体が体質を変え、経済発展に適応した政治のリーダーシップが形成されている。また、WTOへの加盟を果たした後、国内の経済政策のみならず、行政、司法制度の整備などについて大きな課題が残っている。
 今後の中国の国内統合、さらに日中関係を考える際にナショナリズムがきわめて重要な意味を持ち、かつ扱いにくい焦点となる。この点について谷野氏は、日本側が不必要に驕ったり、警戒感を持ったりするのではなく、歴史を謙虚に反省した上で、対等な関係を作るよう努力する必要があると述べた。また、中国の側にも、台湾問題や国内経済問題について、大人の対応をする必要があることを指摘した。
 21世紀のアジアの安定にとって、日中関係の健全な発展は不可欠であるという谷野氏の指摘は、重い意味を持つ。発展著しい中国の目がアメリカだけに向くことのないよう、日本自身も魅力のある国にならなければならず、隣国とのいさかいで欲求不満を晴らすよりも、前向きの関係を構築しようというメッセージが講演から伝わってきた。
 会場には130名ほどの聴衆が集まり、講演のあとは活発な質疑が行われた。

5

 

From Abroad

「ハーバード・ロースクール気質 -日米ロースクールの深淵」

吉田邦彦(本研究科教授)

 私は、昨年秋よりハーバード大学のイェンチン研究所の共同研究室とアパートを往復する-20年前の助手時代にタイムスリップしたかのような-毎日を過ごしている。ここはアジア研究所で、隣国の研究者たちとの交流も得難いものなのだが、研究内容には制約がないので、専門柄自ずとロースクールのお世話になることが多く、セミナーや研究会などでロースクールの教官や院生・学生たちとの交流も連日のようにある。私は、前々から、日本でのロースクール化の論議には、アメリカの実態の核心的部分(まず学ぶべきもの)が抜け落ちているのではないかという「危惧」を持っているのだが、日々のロースクールの「観察」をもとにしつつ、その幾つかを具体的に列挙してみたいと思う。

 第1に、「教材」としては、判決例とともに徹底的に、学術論文が読まされる(特にセミナーの場合。分量は、週1回のもので、1000頁をこえることが普通である。そして、各頁には、2頁文の複写がされているから、実際には、2000頁分ぐらいある)。かつてはともかく(私の学生の頃は、例えば、星野ゼミのように大量の論文を読まされるものもあって、大学教育とはこのようなものかと、その「見識」を感じたことであった)、今の日本では、そういうことは無理ではないかという反論が聞こえてきそうである。しかし論文講読の効用としては、批判的に物事を思索する現場に立ち会えるということであろうから(論文は、現状批判の産物だから)、実は「思考」のトレーニングをする一番の早道であるし、頭脳を柔軟にし、何よりも知的刺激を味わう楽しさを伝え、アカデミズムが承継される。また重要なのは、単に最近の研究だけではなく、広く古典的なものまで教材の射程は及んでいることである。そもそも、アメリカでは、ロースクールとは、研究成果ないし学問を伝えるところという考え方が少しも揺らいでいないのである(因みに、Bar Examの準備は、学生各自が試験前にやるべき知識の整理であって、ロースクールの教官がするほどの学問的なことではないとされるのが、こちらの常識であり、そのためのハウツーものとの役割分担が厳然とできている。そうでないと、そのトレードオフとして、ロースクール教官の本来の職分たる研究活動がおろそかになり、それこそロースクールの存立基盤を掘り崩してしまうという了解が暗黙の前提としてあるわけである)。

 その結果として第2に、学生諸君も、学界の動向に実によく通じている。周知のように「ローレビュー」は、学生の編集するものであり、ハーバードの場合、毎年何百もの大型論文が全国から集まるから、その選別には研究の最先端に通じていることが不可欠なのである。しかもその編集に従事することは、名誉あることとされており、学生諸君が研究に通じていようとする「気質」は、広く認められる。研究・教育を連続的にする制度的担保として無視できない存在であろう。わが国では、ただでさえ、学生の論文離れが指摘されるところであり、どうしたらよいものであろうか。「最近の学生は来栖先生の名前も知らないのですよ」と、某有名大学の教官が語っているのを聞いて、「それを教えるのが教育ではないか」と腹が立ったことを思い出すが、わが国の「平易化教育」の動向は、アメリカとはあまりにも対蹠的だと言わずにはいられない。
 さらに、第3に、授業の進め方であるが、「予習中心」である。予習を通じて実力を高めていくというシステムになっているのである。それをしていかないと授業での議論に付いていけないし、実際のところ、多くの学生は前述のごとき大量の宿題にもめげずに読破して、その予習の成果を前提として発言しようとする者が多い。ここにおける、学生の積極的な学習上の「主体的個人主義」の「気質」(それは、個人・社会のあり方の根本問題から始まる諸問題について、自分自身が主体的に意見を持とうとして、独力で勉強しようとする態度であり、これは、アメリカの学問の基調をなす、オリジナリティ志向、研究上の個人主義とも繋がっている)がどこから来ているのか、こうしたものをいかにして醸成するかこそが、わが国では大問題だと思われる(それに比べたら、ソクラティック・メソッドの可否とか、法律の文章の書き方とか、学生のアンケートの是非とかのテクニックの問題は、二次的なことであろう。順序を間違えるとおかしな倒錯現象が出てきてしまう)。
 また第4に、「法律学のイメージの奥行きの広さ」という点でも、大きく異なると思うことが少なくない。判例を読んだりする出発点は同じなのだが、必ずその広い視野からの政策的考察、原理的・哲学的考察にも及び、最近では経済学的分析も少なくない。そうかと思うと社会背景の歴史的・文化的検討が加えられるという次第である。これは、研究論文だけの話ではなく、ロースクールの授業内容としてそのまま反映し、それが講義内容を豊かにしていて、研究動向に通じようとする学生側でもそうしたものを求めており、相乗作用を起こしているように思われる。ここには、アメリカのリアリズム法学の知的遺産という側面が無視できず、ヨーロッパ法学との分水嶺とも言えて、いつもうらやましく思うことである。そして、わが国の民法学者の先達たちはこうした刺激に敏感に吸収しようとしたが、最近はどうであろうか。何も私は法教義学が悪いと言っているわけではない(法律学である以上、不可欠のものであろう)。ただそれを、ダイナミックに塗り替えていく、批判的議論の発展のためにも、アメリカのスケールの大きい学問からの教育への還元ということは、もっと顧みられていいと思う。
 やや話が抽象的になったが、第5にもっと具体的・実践的なところに目を移そう。言うまでもなく、法的弁護活動には費用がかかり、低所得者やマイノリティの法的要求の声は小さくなりがちだ。また法律家の方も、往々にして大きなローファームの儲かる仕事に目がくらむことが、少なくないであろう。そこで、各ロースクールでは貧困者支援の意味合いもあって、積極的に「公共利益(pro bono publico)のための慈善的活動」が法学教育の一環として盛んである。ハーバードでは、ジャメイカ・プレインにあるHale & Dorr Le-gal Service Centerは、そんな機能を果たしており、法律相談活動・弁護活動を実践教育(clinical legal education)として行っていて、学生諸君の「社会正義感覚」の涵養に努めているのである。それに対して、わが国はどうであろうか。例えば、神戸の震災の被災者が憂き目を見たとき、ホームレスが溢れかえろうとするとき、また在日の集落が立ち退きを迫られているとき、さらには、アイヌ民族の所有権問題が名目額の返還で済まされようとするときに、実践的に乗り出していこうとする(弁護とは行かないまでも、視察・調査に出かける)法学部の団体やセミナーがどれだけあっただろうか。
 思いつくままに、「ハーバード・ロースクール気質」とも言えるものを-既知のことも多いであろうのに-書きつづってみたが、これと比較してわが国の状況についてどう考えたらよいのであろうか。あえてここでは私の評価は述べないが、法科大学院の議論が盛んな昨今であるだけに、読者の皆さん各位が今の内にこの肝心な問いに真摯に向き合っておかないと、とんでもないことになると思わずにはいられない。

(米国・ハーバード大学にて)

 4

ハーバードヤードとロースクール図書館(ラングデルライブラリー)

 

国際研究集会「グローバル時代のソーシャルガバナンス 20世紀社会民主主義を越えて」

 大型の国際シンポジウム「グローバル時代のソーシャル・ガバナンス 20世紀社会民主主義を越えて」が10月14、15の両日、北海道大学において開催される。このシンポジウムは、学術創成研究「グローバリゼーション時代におけるガバナンスの変容に関する比較研究」の2003年度プロジェクトの一環であり、10月11、12日に東京において開かれるもう一つのシンポジウム「グローバル化とマルティラテラリズム -欧・米・東アジアの進歩的政治をつなぐために」と連続しておこなわれるものである。
 今日、福祉国家および福祉政策をめぐるドラスティックな転換は、グローバリゼーションのもとでのガバナンス変容のなかでも、とくに注目されるものの一つである。なぜならば、福祉国家は、労資の歴史的妥協のあり方、国民国家という枠組み、政府主導による市民社会の整序、産業主義との強いリンケージ等の点で、いわば20世紀型ガバナンスを象徴する存在であったからである。
 こうしたガバナンスのあり方が大きく変わろうとしている。ただし、グローバルな市場経済が福祉国家体制を一掃してしまうかのような議論は単純にすぎる。福祉国家を舞台に進行しているのは、多様なベクトルをはらんだ変容過程であり、市場原理主義の席巻というのは想定されるシナリオの一つにすぎない。このシンポジウムでは、福祉国家のゆくえについて、とくにその形成にイニシアティブを発揮した社会民主主義の運動とのかかわりに着目しつつ、徹底した議論を試みようとしている。
 ここでのキーワードは「ソーシャル・ガバナンス」である。この言葉は、福祉国家体制を機能的に継承しつつも、その枠に収まらない新しい制度の枠組み、すなわち国際的な次元での社会政策の展開、政府と民間営利、非営利団体との新しいネットワーク、福祉供給への市民の参加を確保する新しい回路の形成などを包括して用いられる。ポスト福祉国家のソーシャル・ガバナンスとは、具体的にいかなるかたちをとりうるのか。この会議では、四つのセッションがそれぞれの視点からこの問題を考える。それは、「グローバル化は社会民主主義をいかに変えたか」「新しい福祉国家? 社会的排除と社会的包摂」「開放経済のもとでの福祉国家と労働市場」「市民社会の将来とソーシャル・ガバナンス」の四つのセッションである。
 このシンポジウムの参加者の顔ぶれは、こうした大きな問題設定にふさわしいものである。ごく一部をあげるだけでも、マックスプランク研究所のF・シャルプ教授、ハイデルベルグ大学のW・メルケル教授、ロンドン大学のD・サスーン教授、ウィスコンシン大学のJ・ロジャース教授など、そうそうたる顔ぶれが揃う予定である。もちろん、日本側からも多くの論客が参加する。このシンポジウムは、わが国のガバナンス研究の展開にとっても、一つのマイル・ストーンになると確信している。

 

Information

●7月11日、W301会議室において、日仏シンポジウム「日本とフランスにおける国・地方間財政関係」が開催された。ジャン・ルイ・グッソー教授(ポワティエ大学法学部)による講演の後、吉田博氏(札幌市東区保険福祉部保険福祉サービス課長)、亘理格、宮脇淳、畠山武道各教授(いずれも本研究科)の報告が行われた。司会・岡田信弘教授(本研究科)。公法研究会主催、高等研センター共催。

●来る8月23日午後1時~6時、現代民事法研究会・札幌弁護士会・高等研センター主催による公開シンポジウム「法科大学院における民事法教育のありかた -実体法と手続法の綜合教育の実践に向けて-」が行われる。松久三四彦(北海道大学)、井上治典(立教大学)、山中善夫(札幌弁護士会)、小山稔(第二東京弁護士会)各氏の報告などを予定。会場:北海道大学大学院文系共同講義棟9番教室。

●9月5日午後6時よりクラーク会館大講堂にて、香山リカ(精神科医)、宮台真司(東京都立大学助教授)、神保哲生(ビデオジャーナリスト)、山口二郎(センター長)による公開シンポジウム「ナショナリズムのゆくえ」を開催する。高等研センター企画、ビデオニュース・ネットワーク撮影・配信協力。入場定員500名。参加希望者には北大法学部教務係窓口にて入場整理券を配布中。

 

Staff Room●Cafe Politique

M a s t e r●5月後半から体調が悪く、仕事のペースを落とす。老眼が進行し、遠近両用の眼鏡を作る。年には勝てないという実感。折しも、93年政変から十年の節目を迎え、この間何をしてきたのだろうかと考え込むことしばし。

G a r s o n●子供たちが加害者となり、被害者となるセンセーショナルな事件。“ひきこもり”から長期間抜け出せない若者、中高年自殺者の増加のニュース。家族や学校、職場の中で同時代を生きながら、ひとりひとりの距離はどんどん隔たっているような。もどかしくも重い現実です。

森のフシギ●法科大学院設置準備、学部改革、学術創成研究、21世紀COE採択・・と、時代の大きな渦に巻き込まれながら健闘を重ねている北大法学部ですが、こうした時代だからこそ長期的視野を可能にする教養の重要性を痛感します。広報もまた、心を込めた発信でありたいものです。アリバイや体裁づくりの言説、ホンネに開き直った実利主義の言説が横行する状況だからこそ、なお。自戒を込めつつ。

 

Hokkaido University ●The Advanced Institute for Law and Politics

J-mail●第13号
発行日●2003年8月5日
発行●法学研究科附属高等法政教育研究センター[略称:高等研]

〒060・0809 ●北海道札幌市北区北9条西7丁目
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E-mail●academia@juris.hokudai.ac.jp
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公開シンポジウムのお問い合わせは Phone●011・706・3119まで

【Academia Juris】